思い出の一品「鳳凰拼盆」

2012.06.30

 

「たかつき京都ホテル 中国料理 櫂」
料理長 野上 博文さん

1960年 1月生まれ

 今回思い出の一品をご紹介下さるのは、たかつき京都ホテル中国料理 櫂(かい)の料理長野上 博文さんです。TAOではこれまでに幾人もの方を取材させていただきましたが、ご自慢の自転車を用意して取材に応じて下さった方は初めてでした(笑)。そんな野上さんへのインタビューは、興味深い思い出話や一本気な性格が伺えるエピソードなどが盛りだくさんで、あっという間の取材時間でした。

 野上さんのお生まれは東京都中野区です。大工をされていたご両親でしたが、大阪の茨木市にて商売を営む親類の勧めで、一念発起、ご家族で大阪に移って商売をする事になったようです。野上さんがまだ2歳の頃のことです。大阪では、最初卵の販売から始まり、お好み焼きやイカ焼きなど、徐々に手を広げられていったようです。家が商売人なので、子供時代は鍵っ子でした。学校が終わっても家にいることはほとんどなく、毎日暗くなるまで友達と外で遊ぶ毎日。そして中学に進学すると、野上さんは野球部に入部します。「ここで体育会系の上下関係なんかを学びましたね。府の大会に何度も出場するほど強い野球部で、厳しい練習が朝から晩まで毎日でした。」そんな強豪チームの中で野上さんはセカンドでレギュラーでした。

 中学卒業後は、大阪府立吹田高等学校に進学されました。余談ですが、ここは芸人麒麟の田村裕さんの母校でもあります。進学当時、野上さんは身長が155㎝と小柄であったため、野球ではなく、合気道部に入部しました。しかしわずか4ヶ月で廃部となってしまい、かねてより先輩の誘いがあった軟式テニス部に入部します。「またここの顧問が熱血先生でしたね。試合に負けた選手は即坊主、コートの隅でバリカンで刈られるんです。練習も厳しかったですし、インターハイレベルの強い部でしたよ。」何事も中途半端が嫌、やるからには勝ちたい、と言う思いの強い野上さん、中学時代の野球部にしても高校時代の軟式テニスにしても、上手くなりたいという思いは強く、厳しい練習にも耐えて卒業までやり遂げました。「青春時代を振り返ると、勉強よりもスポーツ一本でしたね。“勉強せい”とも言われなかったのであまりしませんでした(笑)。」

 さて、そんなスポーツ少年の野上さんが料理の道を目指したのはどんなきっかけからでしょう?「美味しい物が食べたいなという子供でした。鍵っ子時代には、自分でラーメンとかを作ったりしていました。小学生の時、近所に美味しいラーメン屋を見つけて、何度か食べに行ったんですが、ある時1年ぶりに食べに行ったら美味しくなくなっていた事があったんです。後で知ったんですが、オーナーが代わっていたとか。子供ながらに舌が違うとわかったんですね。食べ物屋をやっていた親の影響も少しはあるんでしょうかね?」高校卒業後の進路について考える時期に、「このまま大学に進学しても中途半端になる。何か一つの職を身につけたい。」と考えました。そして、子供の頃からの「美味しいものを食べたい」と言う思いに繋がる、料理人を目指して料理をトコトン突き詰めたいと思い、18歳の春、大阪阿倍野の辻調理師専門学校に進学されました。

 

 「最初は洋食がやりたかったんですよ。」とおっしゃる野上さん。その理由は、高いシュッとした帽子がかっこいいと思ったから。しかし色々な料理を学ぶうちに、中国料理の方がおいしいと思うようになりました。「当時は、テレビ番組の“料理天国”に中国料理で出演されていた、松本秀夫先生がまだ教壇に立たられていました。松本先生が、『中国料理を選ぶ人は少ないから、料理長になれる可能性が高いよ』と勧めてくださった事もありましたね。」1クラスに約200人の生徒がいましたが、野上さんは講義の時はいつも前列に座っていました。先生から直々に声掛けしていただけたのは、こうした真面目な態度の印象が強く伝わったからでしょう。「高い学費で負担を掛けているので、真面目に取り組まないと親に悪いし、何よりも自分で選んだ道だから、常に真剣でした。」との事。

 

 在学中に、中国料理南国酒家の総料理長、冨塚宏(現中国割烹泰南飯店オーナー)さんを講師に招いての授業がありました。野上さんにとって、大きな転機が訪れたのはこの時です。「他にもいろんな先生を招いての授業がありましたが、この方が一番印象に残りましたね。憧れというか、この人の下で修業したいと思いました。あの時出会えていなければ、今は違った人生だったと思います。」その念願かなって、卒業後に南国酒家で富塚料理長の下で働くことができる事になり、東京へ移る事になりました。野上さんが19歳の時です。

 

 中目黒に南国酒家の社員寮があったのですが、6畳部屋に同期3人が共同生活というものでした。自分のスペースは布団の上くらいの物、常に3つの布団が引きっぱなしの部屋です。「今でも思い出すのは、3つの布団の右端が私で、当時荒井由美が好きで良く聞いていました。真ん中は北海道出身で、演歌を良く聞いていました。そして左端は東京出身で、矢沢永吉の歌をずっと聞いていたんです。この永ちゃん好きが、現在南国酒家の原宿本店で副料理長の細川氏なんですよ。」野上さんの同期は15人でした。ところが1人ずつ辞めていって、年末を迎える頃にはわずか5人に。「やっぱり給料安いわ先輩から怒られるわで、続かない人が多かったですね。けど、先輩に“まだ何もできないのに給料をもらえているんだよ”というような事を言われたことがあって、確かにそうだなと思っていましたね。」

 調理場は30名ほどで、鍋が10人。1年目はひたすら鍋洗いと食器洗いです。150枚からある鍋がうず高く積み上げられ、それを一枚ずつひたすら洗うのです。よく鍋洗いをしながら、鍋の淵に残されたソースを舐めて味を勉強するみたいな話がありますが、野上さんももちろん何度も行い、先輩方の味付けを研究されました。2年目になると板場に入り、一年間野菜などをひたすら切ります。3年目に、前菜か鍋かを料理長が決め、どちらかに配置さるのです。野上さんは前菜になりました。「“石の上にも3年”って言葉じゃないですけども、何年もの下積みで苦労を経て、上にあがっていく事が自然ですよ。今は良い方へ良い方へとすぐに動いてしまう事も多いと思いますけど。この時期にいろんな知識や食材の良し悪しを見分ける眼とかを学ぶことができました。」

 さて、晴れて前菜をやらせてもらえる事になったのですが、まずは板洗いやきゅうりの掃除など、雑用からのスタートです。前菜の先輩方が作る数々の前菜を見ながら、「いつか自分も鳳凰を作りたい」と思うようになりました。そして野上さんにチャンスが巡ってきたのは、前菜に入って一年が過ぎた頃。料理長から、一つ前菜を作るようにとの言葉を頂いたのです。その日、閉店時刻の10時を過ぎてからも1人調理場に残り、朝方近くまで5時間かけて鳳凰を作りました。そして翌朝、自信満々で料理長に見せたんですが、そのとき意外なリアクションが返ってきたのです。「自分では完璧にできたと思ったんですよ。ところが、パッと見て、何も言わずに全部捨てられてしまったんです。そのまま何事も無かったかのように、いつもの仕事に入られて…。評価とかコメントとか以前に、何の言葉もありませんでした。その瞬間は呆然としてしまいましたが、次第に悔しくて涙が込み上げきましたね。きっと“お客に出すレベルではない”という評価だったんだな、と思って、プロの厳しさを身に染みて感じましたよ。」この日の悔しさをバネに、野上さんは「もっと腕を磨いてやる!」と思うようになりました。毎日閉店後に調理場に1人残り、先輩の作った料理を撮った写真を見ながら毎日挑戦した料理、それが今回の思い出の一品「鳳凰拼盆」です。水墨画などに描かれる、中国の黄山をイメージした蓮根、その周りで岩に見立てたものは、砂糖を卵白で固めて作られています。たくさんある料理の一つ一つが凝った精巧な作品です。この料理は特別な時にのみ腕を奮われるのですが、野上さんは今回の取材のために、なんと朝5時に起きて作って下さいました。

 

 野上さんのそんな深夜の一人修業は続きます。一度、うっかり包丁を持ったまま居眠りをしてしまい、手を切って目を覚ました事もあったとか。4針縫う大怪我で、野上さんの手には今でも傷跡が残っています。努力の甲斐あって、少しずつ腕を上げ、先輩や同僚にも認められるようになりました。

 そしてこの頃、冨塚料理長には特別可愛がってくださったようです。休みの日にも料理長の運転手を勤めながら、色んな所へ連れて行ってもらったり、色んな物を食べさせてくれたりと、たくさん勉強をさせて下さいました。「一つ忘れられない出来事があるんです。料理長と上野公園の辺りで、お昼に食堂に入ったんです。そこで私はカレーを注文して、出されたカレーにいつもの癖でソースをかけたんです。その時はビックリするくらい大声で怒られましたね。『これから料理人になろうという者が、出された料理を一口も食べないうちに味を変えるな!』って。この時怒られたことは、今も守っていますよ。」今でも野上さんは、どんな料理も一口食べるまでは味を変えないとの事です。

 

 「前菜に入ってから3年目くらいの時、冨塚料理長に大阪に帰りたいと告白したことがあったんですよ。」とおっしゃる野上さん。「地元を離れての修業生活で、少し不安になった時期だったんです。そしたら『あと3年待て。3年後に大阪に全日空ホテルが出来るから、それまで頑張れ』って止めてくれたんです。」ずいぶん先の話なので半信半疑ながらも、野上さんはその言葉を信じて3年間続けました。「そしたら本当に3年後、料理長に部屋に呼ばれて、『話つけといたから』って。約束通り、大阪全日空の立上げメンバーに入れてもらえるよう、料理長が顔を利かせてくれたんです。」こうして野上さんは大阪に戻りました。24歳の時です。

 

 1984年、大阪全日空ホテル(現全ANAクラウンプラザホテル大阪)中国料理花梨創業時の料理長が斎藤満さん(現守口ロイヤルパインズホテル中国料理「桃華」料理長)、金城 保夫さん(現全日空ゲートタワーホテル花梨料理長)もおられました。「斉藤チーフは調理場では怒らない方でしたね。一度だけ人参の彫刻を、横着して型を使ってるのを見られて怒られたことがありましたが、10年以上やっててその一回くらいしか記憶がないですよ。仕事終わりには、金城さんと私はしょっちゅう新地に飲みに連れて行ってもらってました。そこで仕事の話とかアドバイスとかをしてくださったんです。」そこで飲んだあと、深夜3時とかに自宅に招いてくださった事もよくあったとか。「斉藤チーフには、料理以外にもいろんな事を教わりました。よく“いろんな人と付き合え”って言われましたね。人間としてもっと成長しなさい、と良く教えられました。」

 

 1996年、関西国際空港の開港で賑わい始めた対岸のりんくうタウンに、全日空ゲートタワーホテルが開業しました。金城さんがチーフとして、野上さんは副料理長として、現地へ赴きました。オープン直後は3千万の売上を上げた程で、かなりの忙しさ。野上さんは週3日のペースで泊り込みでした。「金城チーフは前向きな人柄で、すごく勉強させてもらいました。売上が落ち込んできても、絶対下にあたったりしませんでしたし。弱みを見せないというか。どこか斉藤チーフに似たところがありましたね。」

 野上さんが、たかつき京都ホテルにこられたのは42歳の事です。つてがあって、料理長として迎えたいという話があり、それが実現したのです。「まず最初にやった事は、調理場の掃除です。スタッフ総出で片付け作業から始めました。環境が整っていなければ、良い物は出来ませんからね。」

 ところで、中国料理レストランの『櫂』と言う店名の由来はどういったものなんでしょうか?『櫂』自体の意味は、舟を漕ぐための魯のような船具の事です。野上さん曰く、昔は上海料理主体だった→ふんだんな海鮮料理→海をイメージさせる言葉→船→櫂との事です。オープンして、来年でちょうど20周年を迎えます。

 

 料理長となって頭を悩ませた問題は、若手が長続きしない事でした。年末の繁忙期はさすがに寝る隙もない程の忙しさなので、新年を迎える前にパタっと辞めてしまう人も多かったようです。「一番しんどい一週間を乗り越えれば、ひとつ大きな自信が付くのに、あきらめて逃げてしまうんですね。3年間続く人はなかなかいませんでした。」人を育てるということの難しさを身にしみて感じたのです。最終的に悟った事は、“言うだけでは人はついてこない、自分がやっている姿を見せなければ”と言うことでした。努力すればできるんだということを若手のコックに知ってもらうよう、自らが料理の研究や、コンクール出場など、色々な努力をされたのでした。

 

 野上さんが24歳の頃に、心斎橋のそごうで開催されたグルメフェアコンクールで金賞を受賞しました。これをきっかけに、いろんなコンクールにも力を入れるようになりました。43歳の時には、4年に一回開催される世界大会にも出場しました。その会場にて、点心のスペシャリスト、市川友茂さんに出会いました。市川さんも同じく出場されたのですが、手のすいた市川さんは、気さくに野上さんの下準備を手伝いに来てくださったのです。その人柄に惚れ込み、以来親しくお付き合いをされることになりました。埼玉にある市川さんのお店に足を運ばれた事もあります。

 「市川さんから『あの脇屋友詞さんが、辻調に講師として教えに来る』と言うことを教えてもらって、その日程を聞いて会いにいったことがあるんです。そしたら気さくに会って下さり、話ができたんですよ。その時に『横浜に来ることがあったらおいでよ』とおっしゃっていただいたんで、しばらくして本当にお邪魔しました。しかもアポなしで。」その時も、一回しか会った事がないのに、脇屋さんはとても暖かく迎えて下さったとのことです。調理場にも入らせてもらい、惜しむ事無くいろんな物を見せてもらい、気がついたら調理場で6時間も過ごしていたとか。「脇屋さんも、人間的に素晴らしい方です。偉い方なのに偉ぶったところがみじんもなく、丁寧に応対してくださる。周りの人を大事にする姿勢は、本当に見習わなければならないと思いました。」

 

 前記のように学生時代はスポーツ少年だった野上さん、今でも積極的に体を動かしています。毎日の通勤は自転車。写真にあるような、プロ仕様の本格的な自転車で、ご自宅のある吹田市から高槻市まで、毎日30㎞程の道を雨の日も雪の日も通い続けています。それは体力維持のため。繊細な料理を作る為には持久力や集中力が必要とのことです。自転車で通う野上さんを見て、若いコックさんも刺激を受けているようで、みんな自転車を持っているとの事です。

 また、テニスクラブにも加入しており、週に1日ある休日にはよくテニスで汗を流します。気分転換のつもりで始めたものの、やってみると「もっともっと上手くなりたい」と熱が入ってしまいました。「いつでも自分にプレッシャーをかけて、何事もやれるところまでやり切りたいんです。だからよくテニスのコーチに『力が入りすぎ』って言われます(笑)。」

 ご家族は奥様と、20歳の娘さんと、高校2年生の息子さんの4人です。取材の少し前には、息子さんと2人、自転車で箕面の山に登ったようです。「人生と同じで、上り坂があれば下りもあるっていう事を学んでもらいたかったんです。」ご家庭でも自ら体を使って教えるというスタイルは変わらないようです。

 

 若い世代のコックさんに、メッセージをお願いました。「とにかく若い頃から色々な事に挑戦して欲しいですね。うちでは、コンクールにどんどん出るように言っています。勉強にもなるし、人脈も増えるし、そして受かったら喜びと充実感が返ってきますから。好奇心をもって、何でも挑戦すること、勉強することですね。あと、辛くても3年間は我慢すること。日々何か得るものが必ずある訳ですから、それをアンテナ張って感じ取ることが大事だと思います。継続が大切ですよ。」

 

 何でもとトコトンやり抜く野上さん。際限のない料理の世界で、これからもずっとずっと、おいしいものを突き詰め続けていかれることと思います。

 

たかつき京都ホテル

高槻市城西町4-39

TEL : 072-675-5151

 

 

 
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