思い出の一品「魚香茄子」

2012.06.30

中国四川料理「錦城」
代表取締役 多田 入城さん

1942年 2月生まれ

 多田さんは、昭和17年2月、北海道は釧路に生まれました。15歳で母親に連れられ上京しました。当時の日本は、まだ当たり前に3食たべられる時代ではなく、生きるための苦労は大変なものだったようです。若干15歳で、働き口を探すのでした。

 最初は一足先に上京していたお兄さんを訪ね、その近くにあった和菓子屋で働きました。次に、浅草にあった中国料理 正華で働きました。多田さんが初めて中国料理店で働くことになったのが、こちらのお店です。主に洗い物の仕事でしたが、まだ湯沸かし器はもちろん洗剤もない時代、固形の石鹸で、麺をゆでた残りのお湯を使って、分厚い宴会用の重い大皿を洗うという重労働でした。こちらで働かれた1年半程の間は洗い場の他に、地下で麺やワンタン、焼売、餃子などを作りました。この時に老麺で作る包子を身につけたのでした。

 そして次に、銀座並木通りの萬寿園という上海料理のお店で修業を始めたのですが、なんとこちらで不始末による火災に遭い、私物はすべて焼けてしまいました。その後、萬寿園の仁(ニン)さんと言うコックさんに同行して、福岡の天神へ1年6ヶ月、そして再び東京に戻り、新宿の友楽飯店で働きました。萬寿園を含めて、4年間の修業でした。

 

 昭和37年、知人から四川飯店の紹介を受け、当時新橋にあったお店を見にいきました。「夜の11時とか12時頃でしたが、厨房の中をのぞいたら、そんな時間でもみんな麺を打ったり、筍を切ったりと、仕込みをしていたんですね。すごく印象的でした。」こうして四川飯店の門をくぐったのは、多田さんが19歳の秋のことでした。

 その当時は、『四川料理の父』でお馴染みの陳 建民さんと、もう一人黄 昌泉(コウ ショウセン)さんのお二方が料理長を務めておられました。また、たくさんの先輩がおられましたが、中でも同じ北海道出身の原田治さんには特別可愛がって面倒を見てもらいました。「ここでは鍋洗いから始まって、手打ちそばを打ったり、アヒルを焼いたりといろんな仕事を覚えましたね。私にとって、この頃に初めて本当の料理に出会ったというか、貪欲に料理を覚えました。」

 昭和39年、陳さんが六本木に2店舗目を出店しました。多田さんは2番手として立上げメンバーに選ばれ、六本木へ異動となりました。

 現在も同じ場所にあり、繁盛店の六本木四川飯店ですが、スタートから好調だった訳ではありませんでした。坦々麺が1日に1杯しか出ないという日もありました。「この頃、陳さんが『想思病(シャンスーピン)、想思病』とよく口にしておられたのを覚えています。『頭が痛い』と言う意味なんですね。最初はそれほど売上が上がらない時期があったんですよ。」オープン時にはこういった苦労があったようです。

 

 さて、今回多田さんにご紹介していただいた思い出の一品は、六本木四川飯店在籍中に覚えた『魚香茄子』(ナスの香辛料煮込み)です。「先輩がまかないで作ってくれた料理だったんですが、すごくおいしくて衝撃を受け、自分でも作れるように真似をしてやってみたんです。ところがこれが難しくて、苦労して物にしたので、すごく思い入れがあるんですよ。」若手の間で順番にまかない担当の日が回ってきます。多田さんは先輩の番でも、「自分に作らせて下さい」とお願いし、何度も何度も挑戦しました。「この料理の味は、辛い、甘酢味に近い味なんですが、最後の酢の加減が難しいんです。入れすぎず少なすぎず。甘酢の奥深さを知りましたね。」

 

 昭和39年、冬季オリンピックを翌年に控える札幌にて、ホテル三愛がオープンしました。出身地の北海道と言うこともあって多田さんに白羽の矢が立ち、再び立上げスタッフとして任地に赴きました。「当初2番手として行ったんですが、半年ほどで中国の方の、まな板トップの方がお亡くなりになって、その後は自分がまな板1番を務めました。」この時期に仙台出身の奥様とご結婚をされました。

 数年後、原田さんから「こっちに戻ってこないか?」と声がかかり、さし当たって名古屋の赤坂飯店へ移りました。そこから名古屋都ホテルや東京華都飯店など、原田さんからお声のかかるところへと赴くのでした。「華都飯店の時は、田中角栄氏から出張料理の要請を受けた事もありましたよ。娘の田中真紀子さんがホームステイから帰国した直後で、向こうのホストファミリーを招待した時の料理で、私たちが腕をふるったんです。」

 

 昭和45年頃、多田さんは独立し、再び名古屋へ戻りました。「ラーメン屋をやったんですが、失敗してしまって。借金返済のために、市場で天ぷら揚げたりしていました。そんな話を聞きつけて、原田さんが連絡をくれたんです。岡崎市で248号線沿いに店を出す人がいるから来てくれって。ここでお世話になって、借金を返済しました。」その後、また借金をしてラーメン屋を始め、返済しながらもまとまったお金をためる事ができました。場所や業態を変えながらも着実に資本をためて、昭和56年、今の中川区に土地を購入して錦城オープンへこぎつけたのです。

 店名の由来は、中国四川省の成都市から。もともと錦織物の製造が盛んだったこの街が、「錦城」と呼ばれた歴史背景があり、店名はここにちなんだ物になりました。この名前を提案してくださったのも原田さんです。

 現在は多店舗に展開されて、中川本店の他に栄にも支店を構えています。また坦々麺専門のフランチャイズが春日井、天白保呂、小牧にあります。「もちろん最初からチェーン展開とか言う考えはありませんでした。もともとは、自分の生み出した料理で宴会を楽しんでもらいたい、という夢からはじめたお店ですから。それは今も変わらないですけどね。」

 錦城の看板メニューはやっぱり坦々麺ですが、もちろん最初から人気商品だったわけではありません。「四川料理専門の店として、麻婆豆腐はもちろん、坦々麺を押していくことを考えてずっとやっていましたが、2~3年かかりましたね。途中で投げ出さず、自分の持った能力を信じて続けました。」

 錦城の坦々麺は9年前からカップ麺で商品化されており、コンビニの棚に並んだり、ネット販売されたりもしています。これは、インスタント麺で商品化できる料理を探しに名古屋へ来られていた食品会社の方が、錦城の坦々麺の噂を聞きつけて食べに来られ、是非商品化したいと申し出があったといういきさつで実現したようです。「やはり認めていただいたことは大変光栄ですし、利益を上げる為に必至でしたから。良い話だと受けました。北海道の会社だったんですが、何度も指導に現地へ飛びましたね。生麺と変わらない仕上がりになってますよ。」これをきっかけに、坦々麺が大きく広まったのです。

 数々の経歴を経て現在に至る多田さんですが、どのお店でも料理への意欲は高く、必至に取り組んできました。「貧乏生活ばかりでしたから。最初はそれこそ、生きるために必至にやってきたんですけどね。それでもひとつ言えることは、教わってきたことを大切に、そして習得した料理にプライドを持ってやってきました。」とおっしゃる多田さん。四川料理を貫き、自分の腕を信じて挑戦し続けて来られたので、今日のたくさんの人々に支持される錦城があるのだと思います。

 今回思い出の料理を作ってくださったのは、ご多忙の多田さんに代わってご子息の多田 民仁(もとひと)さんです。多田さんの思い出の料理は、次世代にしっかりと受け継がれています。絶妙な辛みと酸味の加減は、料理の奥深さを物語っているように感じました。

 

中国四川料理 錦城 中川本店

名古屋市中川区野田1-449  

TEL : 052-351-4101

 

 

 
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